2007年6月22日金曜日

『不登校という生き方』を読んで

 奥地圭子著『不登校という生き方』(NHKブックス、2005年)を読んだ。私は教育学部で学んでいるのであるが、学校というものの不確かさを実感した。
 印象に残ったのは、不登校になると親も教師も地域も皆が、「とにかく学校へいかせよう」とすることである。学校に行けばまたいじめられるという現実があるのに。周りにつられ、不登校の子どもも、無理やりいやでも学校に行かざるをえなくなる。休むことが正当化されない。

 学校は何故そんなに偉いのか。「夜回り先生」こと水谷修氏も‘私は不登校という言葉が嫌いだ。登る、という表現には低いところから高いところへ行くとのニュアンスがある。だから不登校といわず、私は不通学とよんでいる'のような発言をしている。

 近代化がおきてから、学校はとても権威の高いものになった。教師よりも保護者の学歴が高くなり、わがままな親が出てきている(今週月曜の読売新聞朝刊1面参照)とはいっても、教師や学校の持つ意味合いは大きいようだ。サラリーマンが買春をしてもニュースにはならないが、教師が買春をすればニュースになる(犬が人をかんでも…というジョークのもじり)のが現状である。

 この本をよむまでしらなかったのは、国連の出した「児童(子ども)の権利に関する条約」第31条である。ここにはなんと、一時的に学校を好きに休んでもいい権利が書かれている。おまけに日本も署名し、発行もしている。

 不登校という生き方もありなんだな。この本を読んでそう思った。

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